

深江と法明上人
大念仏寺発刊『融通念仏中興の聖 法明上人 その生涯と信仰』 写真史跡探訪 文/紺野宗明氏 より 河内平野はその昔、満々と水を湛えた湖であった。わが国で稲作が始まった頃の話で、河内湖とよばれていた。大阪湾と河内湖の間は、 上町台地が南から北へ細長く延びて、堤防の役目を果たしていた。京方面からは淀川が、河内南部からは大和川、石川が合流、生駒山録 からも数多の中小河川がそれぞれ河内湖に注ぎ込んでいた。 各河川から河内に住む人達は、水と闘い、水の中で生き、半農半漁を生活の糧としてきた。河内湖は年代を重ねるごとにさらに縮小し、 干拓した沼地に新田ができ、大化の改新以後は、河内湖を含めた土地は、中央の権門勢家や社寺の荘園となった。 河内、交野、渋川、 若江、高安など各郡には、石清水八幡宮、平(枚)岡神社、醍醐寺などの荘園を領有していた。 中世、深江の里は、その地名が示す如く、各河川や生駒山系から湖に流れ込んだ土砂の堆積でできた扇状の段丘が湖の中央に深く入り 込み、江をつくり、その先端に位置していたので「深江」とよばれていた。荘園に住む里人たちは、小さな草屋を建て荘園役人の監督の もと、新田の耕作や、湖の漁が毎日の仕事であった。河内湖の周辺は広い沼地で、葦原が続き、自生の蓮が繁茂し、開花期には河内湖と 里々を薄紅いに染めあげた。こうした湿地帯を千石沼と呼び、自生する蓮を「地バス」「河内バス」といって、御厨を通じて朝廷に献上 された。 湖は最終的には、新開地、深野池となって四条畷あたりまで後退するが、中世、河内に住む人達が京谷石清水方面に旅するには、深江 やその他の湖岸から舟で、四条畷の北條、津辺、中垣内浜などに上陸し、高野街道を徒歩で淀へ出て、更に淀川の舟便を利用するか、ま た湖から舟で遡り、京、西国各地を往来した。 河内の里、深江の里に「清原右京亮守道」という豪族がいた。守道は、淳和天皇に仕えていた右大臣清原夏野公の末裔といわれ、正室 は同国平(枚)岡神社の神職、礒江主計頭正房の息女で「桔梗の前」といった。ところが、この夫婦の間には、なかなか世継ぎが生まれ なかった。守道夫婦には、河内大和の境に位置する信貴山朝護孫子寺で二十一日間のお籠りをし、本尊の毘沙門天に子授けの願をかけた。 満願の夜、信心の真の甲斐あって毘沙門天から「汝に西方の広目天を与える」との夢告があり、間もなく桔梗の前は懐妊した。 弘安二年(1279)十月十日、守道夫婦に玉のような男児が生まれた。両親が願をかけた信貴山にちなんで、七日後に幼名を「信貴 千代」とつけた。信貴千代は幼児の頃から並々ならぬ奇才の持主で、里人からは「まことに広目天の生まれかわりだ」と、ほめたたえた。 この二年後、弟、正次が生まれる。 信貴千代十二歳の時、父守道が悪党の急襲を受けて黄泉の旅路についた。その悲しみの涙も乾かない翌年、母桔梗の前も病の床に伏し た。信貴千代兄弟は昼夜の別なく看病したが、病はますます重くなり、ある日、母は二人を枕許に招いて、弱々しい声でいった。「この 世に、人として生を受けたことは、ほんとうに有難いことなのですよ。これからは二人で力を合わせ、よく学問をし、身体を鍛え、世の ため人のためになるような仕事を残してくださいね。」そう言い残して、かすかに微笑みながら、遂に息をひきとった。 以後の清原家は、沢田源吾兼定という執事が幼い信貴千代や正次を補翼して家門の柱石となり、一家にかかわる御用は、みな兼定がと りしきることになった。 信貴千代は十六歳の春を迎えた。永仁二年(1294)桂木道泰を烏帽子親として元服。「清原朝臣道張」と改名した。道張は文武両 道に練達し、諸芸も残らず体得して名実ともに清原家の総領となった。そして道張は、以前、父が勤務していた京都御所の警固役に任官 された。 正安元年(1299)道張はある神社の社家の息女と結婚した。当世の美女と噂高い娘であった。今まで余りにも不幸続きだった清原 家にも、ようやく春がめぐってきた。 その翌年、玉のような男児が誕生した。里人たちは善膩師童子のようだと誉め称えた。幼名を善福丸と名付けた。 時に、永仁、正安の頃で、天下大いに悪疫が流行した。道張の妻子も流行の悪疫にかかり、はかなくこの世を去った。時は初夏、御所 に勤務する道張の元に、清原家の執事沢田兼定が早馬でかけつけてきた。「道張さま大変なことになりました! 坊やと奥方さまが発病 され、苦しんでおられます。今すぐに、おかえりを…」。道張は早馬で館に帰ったが、一足違いで善福丸が息をひきとった後だった。そ の翌々日、妻も他界した。妻子を一度に失った」道張は、悲しい運命のいたずらと、現世の儚さを痛感し、この上は仏道に入って亡き家 族らの供養をしたいと発心した。 嘉元元年(1303)道張は家督を正次に譲って、執事の沢田兼定に後見役を嘱託し、妻子の百か日法事をつとめた朝、高野聖の俊願、 沢田兼定と共に、妻子の遺骨を胸に抱き、高野山への旅についた。高野山遍照が峯に登った道張は、千手院谷の住侶、俊賢法印を師とし て得度の式をあげた。僧妙を「法明房良尊」と名付けられた。晩進の沙弥ではあるが、生まれつき聡明な法明房は日ならずして、両部不 二の潅頂を伝授され、あらゆる真言密宗の奥義を究めた。 出家得度した法明房は、一心不乱に修行にはげんだ。僧侶として身につけなくてはならない法儀、法式から密教の難しい学問まで、一 応のことは体得した。その教えを民衆にひろめるために、高野聖として郷村を勧化唱導することになった。その行く先々でも、機会をつ くっては名山霊刹を歴訪し、学徳兼備の碩学に諸法の性相を学んだ。そして、道念いよいよ固く、下化衆生を自ら任じ人々の教下にはげ んだ。 勧化とは、一般民衆に高野信仰を勧めて、高野山維持のため浄財を集めたり、納骨をすすめたり、財政的な役割を担う職務で、唱導と は、郷村で仏教的説話を語り、弘法大師信仰を増進させることである。高野聖として法明房の先輩格の重源や明遍も、その昔この河内地 方を巡錫し、権化唱導にはげんだ。その遺跡が今も多く残っている。東、中、西の各高野街道、竹内、奈良、山城の各街道のどこかに、 黒衣桧笠に笈を背にした法明房の姿が見られた。かくて、七年間の廻国修行を終えた法明房は、高野山を降りることになる。 実に八年ぶりであった。郷里の深江の里はあの出離の日のように、朝もやの中に包まれていた。法明房は郷村の入り口に立っていた。 懐かしいわが館から鉦の音が聞こえてくる。長年、荒れるにまかせていた表門の潜戸を押しあけて館に入った。中庭から仏間の様子を窺 うと、あの執事の沢田兼定が朝の勤行の最中であった。今は亡き法明房の両親、妻子の回向を毎日かかさず勤めてくれている。有難いこ とだ。と、法明房は胸が熱くなった。法明房帰郷の報を伝え聞いた親族や知人、里人らが集まってきた。人々は、立派な僧侶となった法 明房の姿に接して、その道心堅固を称賛し、感涙に咽んだ。 里人たちは、法明房に末永くこの地での留錫と諸人化導を希望して、清原館の隣に仮の草庵を建てた。法明房はその志納を悦び、日夜、 法筵を開いて、念仏勧進と布教活動に専念した。しかし法明房の学究は強く、開悟いまだ熱せずとの思いもあって、その修行の場を比叡 山に求めた。 正和元年(1312)法明房は天台の教儀を学ぶため比叡山に登った。比叡山では恵心院の源信僧都の旧跡、横川で勉学修行した。横 川では、往来極楽を願って日夜天台浄土教の「口称念仏」がおこなわれていた。 比叡山での修行を終えた法明房は山をおり、大津の日吉神社に詣で、二十一日の間境内を流れる大宮川で「沐浴身体、当願衆生、心身 無垢、内外清浄、六根清浄、三業清浄」と水行し、断食を続け、一心不乱に籠りの行をし不断念仏した。ちょうど満願の朝、眼前に白髪 の老人が現れ「法明房、おことの沐浴断食、仏道修行の心意気をあっぱれに思う。わたしは永遠に貴僧を手助けし、守護するであろう。 かかる上はこの後、京、大和の高僧高徳を訪ね、なお一層の修行にはげむべし」と言って姿を消した。この白髪の老人こそ、日吉神社の 「大山昨神」であった。法明房はその祭神の夢告に従い、京、大和、山城の国々を巡り、高僧賢者を歴訪して教えを受けた。 京、大和などの高僧を歴訪して、いかに学問の道を修行しても、この煩悩の苦しみを取り除くことは至難である。この身このまま安楽 の世界に生まれるには「弥陀の称名(融通難物)において他なし」と悟り、この念仏で、煩悩に苦しむ庶民を救いたいと祈念して、諸国 行脚の旅に出た。 東北地方の行脚も一段落。久しぶりに法明房は深江に帰ってきた。また、里人たちが集まってきた。先年、建てた草庵も痛みが激しく、 人々は浄財を集めて本格的な草庵を建築した。法明房はこの草庵で、念仏勧進と仏教伝道につとめた。近郷近在から人々が雲集し、深江 の里は春の盛りと賑わった。

「摂津名所図会 法明寺」より