『わが町深江二千年の歴史』
川田 勝造
標記のテーマの大きさにいささか戸惑っています。子供の頃『深江は大昔二千年も前に大和の国からきやはって、笠を作っていや はってんで。』と親からも、村の長老等から聞かされていましたが、全く半信半疑と言うか、むしろ無関心でした。ところが、とあ るご縁を頂いて深江の歴史を調べることに、あいなりました。浅学非才の小生にとっては、古希をとっくに過ぎた身には負担は大き かった。しかし今の心境は、このようなご縁を頂き、少しでも深江の歩みを知ることが出来、そして皆様に発表させて頂くことに感 謝を致しております。 さて、二千年も大昔といえば、「いにしえ」を通り越して古代時代(弥生末期)の古代のロマンにさかのぼります。 参考資料として幸い昭和二十九年〜昭和三十一年頃にかけて大阪学芸大学(現大阪教育大学)鳥越教授のグループが当時の大阪教育 委員会の依頼を受けて、無形文化財の指定を受けても、おかしくない、深江の菅笠について調査に来られ、その研究成果を「摂津深 江の菅笠の研究」という小冊子を作成されたのが本箱の隅から見つかりました。それを主として参考にし、小生の私見もまじえて考 えてみたいと思います。 さて、我国最古の歴史書「古事記」が編集されて丁度今年で千三百年になります、古事記は上中下と三巻から成り、第三巻の第五 章の巻末に「笠縫島と称し、摂津国に笠縫氏が居所」という記述があります。笠縫島は後の世になって『深江』という地名に改めら れましたが、それは平安時代ではなかったかと推察されます。 この様に信頼性の高い古事記に記述されていると言う事は、当時大和を中心として畿内において深江が歴史的な存在価値があった 事の証であります。万葉集にも二首が詠まれています。 一、四極山(シハツヤマ)うち越え見れば、笠縫の島漕ぎ隠る柵なし小舟 高市黒人(タケチノクロヒト) 二、押照る難波(ナニワ)菅笠置古し後は誰が着む笠ならなくに 詠み人知らず 詠まれた時代は不明であるが、たぶん古今和歌集ではないか。 「縫いつたる、こころ深江の菅こがさ、何の下にぞ名はみちにける」 千草(チグサ)中納言 これらの事からして千三百年前には菅笠の知名度が高かった事が計り知ることが出来ます。それでは、この千三百年を基点にして、 それ以前以後の時代がどうであったかを究めて資料が乏しい中、二つに分けて考えてみます。 二千年前ということに、こだわって進めますと資料として古事記の他に日本書紀が主となります。 鳥越先生は古事記及び日本書紀(三十三巻)に記述のある神武天皇以後神話の時代については信憑性は乏しいが、第十代崇神天皇時 代以後は高くなる。つまり天皇は大和を中心に五つの国を設け(摂津・淡海(近江)・美濃・伊勢)に国守(現知事)任命し、盛に 農業を奨励され、始めて税を徴収された。又、朝鮮との交流を深められ、言ってみれば、我日の本の国の礎を作られた天皇である。 日本書記によれば。宮中の拝殿に複数の神を祭祀され、天皇のお言葉に「神々の勢が強く同床共館はいと難しい」つまり神と神との 間で諍いがある事を恐れられ天照大神を天皇の皇女豊鍬入姫命(トヨスギリイリヒメノミコト)に命じ「倭笠縫邑(ヤマトカサヌイ ムラ)」に遷幸された。(現桧原神社あたり)桧原神社のことを「元伊勢」という。 第十一代垂仁天皇(女帝)は、更に倭姫命に 命じ伊勢国に遷幸され現在に至っている。(約二千年前ではないか?) 倭笠縫邑(ヤマトカサヌイムラ)は崇神天皇が即位されるずっと以前から存在し、神聖な所であった。 つまり「倭笠縫邑」というのは笠縫部が集めた集団を邑と呼び、部というには職人を表す。笠縫部は菅笠等菅細工を作り、特に重 要な職務として古代の祭儀に欠かせない祭具の制作を命じられていた。祭具としては盾(タテ)や矛(ホコ)等があるが特筆すべき は拝殿の正面の中央に菅笠(大)を安置されていました。 笠縫部は五部神人(ゴベシンジン)の一人であって一般の職人より身分も高く、それなりの収入があったと思われる。 ここで当時天皇家を支えていた豪族として 一、蘇我氏(渡来人?) 一、物部氏(和人?) 笠縫部一族はこの系統 一、葛城氏(和人?) 小生の私見で彼等の勢力分布を考えますと多武峰(現桜井市南部、談山神社の上頂)を境に南は蘇我氏、北は物部氏、そして二上山、 葛城山、金剛山のいずれも麓が葛城氏である。互いに勢力争いは絶えなかったのではないか。 ところで笠縫部は物部氏の系統であると申しましたが、では居所はどこにあったかは不明ですが、小生が調べたところ『笠縫』とし て表示のある所は主に奈良県の田原本あたりではないかと思います。近鉄の西大寺、橿原神宮前の間に『笠縫』という駅名があり、そ の数キロ北方に『笠縫部発祥の地』という石碑が立っている。そして小生が山辺ノ道を散策に目にしたのが、道に沿って「大和神社御 旅所跡」があり、そこには大和神社の由来の立札の中に「水砂道(日本最古の道)を通って笠縫をへて中山邑‥‥‥」とあり勿論「倭 笠縫邑」申すに及ばず。 さて小生、暇にあかして、それ等を尋ねて見た。ポーチには式年遷宮と大嘗祭との写真、そして日経新聞の切抜記事の三点セットを 入れて各々の地域を尋ね歩きましたが全くと言っていい程、聞くに値する答えはありませんでした。 それでは古代の祭儀になぜ菅笠が欠かせなかったのかについては定かではありませんが、菅は同種の植物と比べ、最も水分を祓じく というところから、天から降って来る災いとか不吉なものを祓うという伝説的ないわれがあったのではないだろうか。 古代の祭儀は国歌の政事(マツリゴト)にも深く関わり、占師とか祈祷師がおり、神の『お告』が政治を左右することが多々あった と考えられる。 かくのごとく神の降臨とか鎮座とか、又同じ観念に基づく即位とか、いわゆる神の出現に伴うと考えられる祭儀には菅笠は必ずなく てはならないものであったのである。菅笠のあるところ、そこには神は座す事を示し、天神の降臨や、その祭儀には笠縫氏が参加した ことであろう。更に推論すれば崇神天皇が天照大神の御神鏡を「倭笠縫邑」に遷し祀られたことも、この菅笠のもつ古代宗教観念と笠 縫氏との?掌の関係から理解し得るものと考えられます。 それでは肝心の深江に代々云々伝えられている『深江のルーツは倭笠縫邑にあり』について小生なりに推論してみます。 約二千年前、つまり垂仁天皇の頃といわれていますが、それよりも以前でなかったのか。古代史は大変難しく軽々に論ずることに差 し控えますが。古代に於いては、天皇家を初め、それを支える各豪族等、そして、その下部に至るまで、もっと云えば民、百姓まで何 らかの形で神を祀っていたと考えられる。そして祀に必要な祭具は菅細工が使われ、そこで考えますには祭具の制作依頼が殆んど笠縫 邑にもたらされ、材料である菅が不足し、注文に応じられなくなっていったのではないだろうか。大和盆地の湿地帯で採れる菅だけで は賄いきれなくなたと考えられる。そのような現況を打破するため、笠縫邑の長(オサ)は熟慮の上、数人の職人に命じ、山(現生駒 山)を越え西へ向かえばきっと海があり、入江には沼澤があって菅笠が自生しているに違いないと判断を下された。彼等は言われた通 り暗峠を越え西へ西へと進路をとり右前方に青々と茂った、まるで浮島のような所を発見し、下って見ると、そこには追い求めていた 菅草が群生しているではない。早速邑に帰り邑の長に一部始終を報告しまして、長の判断を仰いだ。熟慮した上、長は十数人の職人に 命じ、移り住んで、開墾して菅細工を製作するよう要請した。その後菅笠をはじめ菅細工を倭笠縫邑に納め、衣食住に必要な品物(特 に穀物、菜種油など)と物々交換するという長い年月が続いた。 暗峠越の奈良街道は日本最古街道であり後世に東のシルクロードと呼ばれた。 かくの如くのストーリーを描いて見ましたが如何でしょうか。 ここで笠作りの技法について 渡来人がもたらされたのかどうかについては不明だが小生は渡来人からではなく、日本固有の技法であると信ずる。その理由は笠縫部 が物部氏の系統に属するからである。又、菅笠は祭祀だけで無く、死者の弔いにも使われ死者に白い和紙で覆い、その上に菅笠を被せ る風習もあったようです。つまり高貴な人に限りますが屍にまで邪気を祓って安らかに眠って頂くという配慮がなされていた。しかし 笠縫氏にも次第に衰退の転機を迎える様になって行くのである。それは比較的早い時期ではないかと鳥越先生は云っておられる。その 大きな要因として考えられるのが拝殿の正面に祀られていた菅笠が銅鏡に取って替る様になってからだと考えられる。即ち、それは宗 教観念の変遷に伴い祭儀における菅笠のもつ原始的意義が薄れ、そのため、かつて祭儀の中心的価値を有していた菅笠が次第に附随的 な祭具と考えられるようになった。そしてこの菅笠のもつ宗教的価値が薄れるにつれて、またそれを職業とする笠縫氏の存在も社会的 政治的にも後退を余儀なくされるのである。しかし現在でも伊勢神宮の式年遷宮に於いては菅翳と菅笠とが大神の御正体の前後に列す るのみならず、両者はいずれも正殿に納められる。又天皇即位式の最も重要な大嘗祭に於いても廻立殿から本殿に臨まれる時、侍従が 後方から菅笠を以って玉体を蓋し奉ることなど、これらは古儀と古代祭祀の在り方と併せ考えるならば菅笠が古く御神霊に近きにある ものと考えられる。 ただ菅笠を依料と見る信仰はその後も続いたのであろうが、かつてのような面影は最早ない。そのころの姓氏録なるものがあって既 に笠縫氏の記載はなく、実際には細々ながらではあるが継承され専業の笠作りに伝えられていた。 しかし大昔二千年前に移り住まれ、菅細工を作っていたと思われる深江の笠縫氏には想像するに大変厳しい環境におかれていたので はないかと思われる。狭い高地で農業に転業することも出来ず、大変な苦労があったのだろう。菅笠には二面性があって、一つ実用的 要素ともう一つは神聖な要素があったと申しましたね。特にこの神聖さが重宝がられ参詣旅そして神聖な行事等には欠かすことが出来 なかったと思われます。この様なことが生活する上で大きな糧となったのであろう。 仏教伝来(532年)と聖徳太子について堺屋太一氏の言を借りれば、当時の信仰は神道が中心であったが渡来人の間ではひそかに仏 教も信仰されていたと考えられる。そこへ先進国(中国)で信仰されている仏教が伝来し始め民、百姓の間で急速に広がりを見せ始め ました。しかし天皇を初め皇族は神道一筋で異国の異宗教に猛反発され反対された皇族の一人が蘇我氏一族に暗殺されると言う前代未 聞の事件が起こり聖徳太子は相当苦慮された。(聖徳太子の父君用明天皇はすでに内々に仏教を信仰されていた。) そこで大子は熟慮を重ねられ神も仏も同時に信仰するという当時としては世界的に例を見ない決断を下された。ここに特に申し上げ たいことが笠縫氏一族が属していた物部氏がガンとして廃仏を唱えた由、太子は蘇我氏に命じ勅命に従わない物部氏を滅亡においやる のであると堺屋氏はおっしゃっている ここで考えられるのが国を追われた笠縫氏一族はどうなったか。 一つ考えられるのがその一族の一部が山(生駒山)を越えて菅草を求めて「深江」の地に来られたのではないかという一つの説が浮か ぶのであります。 笠縫氏の子孫の居住地であったとされる地名はほかに見ることが出来るが「大日本地名辞書」によると「和州に笠縫の里あり」又「 美濃国安八郡北杭瀬村に笠縫の里あり」との記述があるが、それら等の地は既に笠と関連する何等かの伝承もなく、ただわずかにこの 深江の里のみが現在も笠作りが行われ保存会も結成されている。又文献上からも笠縫氏の末葉として認められる唯一のものである。勿 論この深江が笠作りを現在も伝えて来た所以は式年遷宮や大嘗祭などに菅笠を調達する重要な任務を代々負って来たことにあると考え られる。 さて、「NKH Eテレ さかのぼり日本史」ではないが、千三百年を基点として凡そ七百年あまり前を笠を中心にして考えてきました。 それではそれ以後の時代はどうであったかを深江を中心に考えてみます。前述しましたように古事記三−五の末筆にあるように笠縫氏 は歴史上に現に存在し、そこで作られる菅笠及び菅細工品はブランド化していたと考えられる。しかし残念ながら当時を物語る資料は 全く皆無である。それは度び重なる水害によって流失し、何と云っても「大阪夏の陣」で深江をはじめこの辺一帯は兵火によって焼土 と化したのであります。ここから鳥越先生の研究と大阪歴史博物館から頂いた資料等を参考にしたいと思います。 天平宝字四年(760年)「東南院文章」によると摂津国が東成郡と西成郡とに分割されます。『深江』という地名で呼ばれるよう になったのはいつの頃からかは不明であるが古今和歌集ではないかと思われますが歌の中に「こころ深江の菅こがさ」と詠われている ことからして平安時代ではないかと推測されます。千年前の「なにわの絵図」(個人所蔵)が「深江郷土資料館」に写しが展示されて います。それには「深江の里」として描かれています。後の世のなって深江が四つの字名で呼ばれ、宮浦・菅島・島ノ岸そして水鶏田 (クイナダ)といかにも島であったことが解せます。 時代がとびますが江戸時代の学者で本居宣長という人が書かれた「玉勝間」には深江の地について詳しく書かれています。深江は笠 縫島と称される如く深江の集落は沼沢の中の高所に位置し、大坂城より東方にあり、河内の堺に近し、此地はいにしえの頃は島であっ たと村人は云い伝えている。北の方は難波堀江につづき東は大和川、南西は百済川(現平野川)など多くの小さな川が流れ集まって広 き沼江を有しており難波の古図にはその様子が見える。井戸などを掘ると葦の根や貝がらなどが出てきたという。この様に深江には百 済川及び河内の狭山池の末流が江となって玉造江の巨浸の一部で沼沢であった。 先日吉野の金峯山寺にお詣りした折金堂修復完成を記念して特別内部の御開帳を拝観させて頂き、その荘厳さに感服いたしました。 帰り際に金峯山寺の年譜を拝見し偶然にも江戸期明和五年(1779年)本居宣長が「菅笠日記」を著すとありました。どのような内 容だったのか拝読したいものです。余談になりますが随筆家白州正子氏(かくれ里、十一面観音像など著)は神仏混合について言わく には、その典型的なのが金峯山寺(国宝)であって、中に祀られている本尊蔵王権現(重文)について蔵王は仏を、権現は神を表すと 持論を唱えられている。 大和川はその昔国分のあたりから右に迂回し河内平野の中央を流れ淀川に合流していた。このため下流域の水害が極めて多く江戸時 代宝永元年(1704年)から三十余年の年月をかけて河内の柏原から西に導いて住吉浦に注ぐ大工事が行われた。それによって多く の田畑が開拓され河内木綿などが有名である。それでも深江一帯は低地のため度々水害に見舞われ記録に残るものとして享和二年と文 化四年の大水害には集落を挙げて避難が行われ最後に明治十八年(1885年)の淀川左岸堤防決壊によって瞬時に深江に濁流が押し 寄せました。 これからは大阪歴史資料館の資料に基づいて述べます。文献によると古くは深江一帯は新開庄、また後に新開荘と呼ばれ興国元年 (1340年)及び正平六年(1351年)吉野朝から従来の相伝によって四天王寺の知行とされる。「四天王寺秋野坊日記」による と四天王寺内三昧院の寺領となり「摂津志」によれば新開庄の域は深江、新家、大今里、東今里、西今里、左專道、永田、天王田、中 浜、本庄そして鴫野の十一ヶ村である。しかし「知名抄」にはその名すら見えず、そのため「大日本地名辞書」には全ては沼沢の一寒 村にしか過ぎず東生郡味原郷(現日赤上本町附近)の隷属である。しかし深江村についてはいにしえの頃より笠縫島と称し笠縫氏が現 在も居所し別格であると記されている。天正八年(1580年)「和長郷記」には深江菅笠座が畿内主要都市の笠販売の独占権を有し たと記されている。この件について堺屋太一氏は豊臣秀吉の弟で後に大和郡山城主秀長(百万石)がなかなか才能にたけ余り表にはで なかったが秀吉の良き相談相手であった。そして又錬金術師でもある。つまり諸大名にはこれ以上の上納金は難しく、そこで考えたの が各企業のトップクラスに独占権を与えると称し大分の上納金を納めさせた。深江菅笠座も上納したのであろう。云って見ればそれだ け深江菅笠は老舗であった証でもある。 天正十一年(1583年)に大坂を領有し大坂城築城に着手、この頃深江、大今里、東今里、本庄、中道そして東小橋の各村は秀吉 の直轄地となる。所で「大坂」という地名で初めて呼称されるようになったのは浄土真宗第八世中興の祖蓮如上人の御文章(親鸞上人 のみおしえ)の中で「大坂」という地名で呼ばれるようになったのが始まりである。(天正年間) 話が混同しますが「大坂石山本願寺」は織田信長の命により家臣徳川家康に依って焼打され同時に玉造稲荷神社も巻添えにあった。 慶長年間に入って慶長九年(1604年)深江村が秀吉の正室北政所高台院の所領となる。家康は秀吉の身内等は殆んど抹殺するもの の出家したとは言え高台院には厚遇する。高台院が亡きあと江戸幕府の天領となる。ということは深江村は菅笠を主産としての「あが り」が大きかったと云える。 話が混同ついでに深江村を通る暗峠越奈良街道について堺屋太一氏は次のように云っている。同街道は東のシルクロードと云われ古 代から大和に通じる主要な街道(日本最古ではないか)である。中国、朝鮮などとの交流には、この街道を利用され、遠くは西のシル クロード・ペルシャにも通じる。東大寺大仏建立に際してはインド高僧も通られ遣隋使や遣唐使にも利用され、そして鑑真和尚や空海 といった高僧も通られた。江戸期に入って松尾芭蕉も奥の細道の帰り、この街道を通って大阪に向かわれた。古い時代からこの街道沿 いには既に菅笠の商はされていたと思われる。 さて、江戸時代に入って東成郡の村々は徳川代官や大坂城代の管轄であったが、深江村だけは京都所司代の管轄であった。 現在深江に残る最も古い古文書は「延宝五年丁巳年(1677年)摂津東成郡深江村検地帳」(現在の役所のもつ固定資産台帳)で あるが検地に関しては尼崎で代々青山大膳亮氏が取り仕切っていた。 ここで現在深江に残っている古文書については、それぞれの内容について詳細は解らないが現在261点の古文書を大阪歴史資料館 に預かってもらっている。殆んどが今で云う行政に関するもので、当家が幕末から廃藩置県に至るまで庄屋を務めさせて頂いたため古 文書類が引継々々で受け継いでいたものと思われる。幸い「長持」に入れ土蔵の二階に保管していたことによって度々の水害による流 失を免れた。 小生も古文書を開いて読もうとしたが、なかなか崩した漢字は難しく文章も専門家でないと判断することは出来ないのではないか。 しかし、その中で最も興味をもったのが「稲荷大明神御寄進覚帳」宝暦元年(1751年)である。内容について散見したところ、前 文に「玉造深江稲荷大明神建替願」という文字が見え、所司代に「許可願い」を宮座を代表して庄屋及び年寄が提出した写しが記載さ れている模様(学芸員の言)。地元は云うに及ばず広範囲に寄進を願い、例えば大平寺、御厨、左專道、東今里、本庄等が見え、中で も「お稲荷さん」ということで船場堀江など商家からは多額の浄財(金・銀)を受けたことが判る。簡単な完成予想図も描かれていた ように思う。鳥越先生によれば本殿は桧葦流造で丹(朱)塗の彩色を施したものであると書かれている。大工棟領は中道村‥‥。瓦職 人は西堀江‥‥。時季は異なるが真行寺の修復も同じ大工と瓦職人である。同寄進覚帳の後部残余白ページがある。そこには筆者は不 明ですが深江村を中心にした過去の出来事などの記述がみられ、小生の記録している事を列挙しますと 一、天保山に黒船来航(嘉永年間)村人騒然 一、大塩平八郎の乱 一、享保と文化に大水害、衣食住に困る。味原郷に出稼ぎ 一、安政年間大地震により五名死亡、怪我人多数、法華宗薬蓮寺倒壊し再建されず 一、慶長十六年(約四百年前)真行寺創建(現真行寺貴島住職の言によれば第十二代准如上人の ころで本願寺が東西に分割される以前との事 一、長龍寺が享保年間(約三百年前)に創建される。 ただ創建にあって村人の間には紆余曲折あり、そのために建立が遅れる。 その他水害に関する記述が多かったように思う。以前「大阪の大洪水」というテーマで大阪歴史資料館で展示が行われ同寄進覚帳が使 用された。 話が前後するが検地帳について 最も古い検地帳は延宝年間で他に元禄、宝永、享保にも実施され、延宝年間の百年後の宝暦年間と比較してみると、延宝検地では租 税の対象となった田畑と屋敷地をはじめてその他の水掻池を含めて台帳に登録されている所有者総数は106軒(寺院を含め神社を除 く)その内田畑の地主は八十五名である。納税の最高は当時庄屋であった惣右衛門で七拾石六斗七升四合とあり最低は屋敷地のみの三 升六合であった。ちなみに田畑の総合計は五拾八町七反八畝九十歩で石高は七百五拾四石壱斗六升壱合である。現存するのは五郎兵衛 と喜右衛門の二軒(10位内)宝暦年間には地主の移動が激変しているのが見られる。地主が減少し「百姓小前高名寄」に記されてい るのでは小作が増加したことが解る。延宝年間では三十二位であった(六拾六石一升四合)吉兵衛が宝暦では一位にランクされ現存す るのは喜右衛門、五郎兵衛そして四朗兵衛である(10位以内)。田畑及び石高は記載されていないが元禄年間では石高は七百六拾六 石四斗四升六合とある。 次に古文書で多く残っているのが「切支丹御制禁寺請帳」である。各宗派ごとに寺院が責任を持って調査し庄屋に提出していたよう である。(浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、法華宗) 正徳三年の切支丹禁令の立札が現存しているのが「カクレ切支丹」を密告したものには銀五百枚を与えると、かすかに判読することが 出来る。いかにも厳しい弾圧があったことが伺える。 ここまではどちらかと言えば暗い話が続きましたが、これからは二千年の歴史の中で深江が最も好景気の時代を迎えます。ご存知の ように「お伊勢さん詣り」です。江戸後期になって全国的なブームを迎え、深江の特産品である菅笠が好調な勢いで売れるのです。前 述したように菅笠には二面性があると申しましたが両面とも「お伊勢詣り」にはマッチし、特にメイド・イン・フカエの笠はブランド 品で旅の安全を祈願して皆被ってお詣りしました。深江を通る伊勢街道(旧奈良街道)には菅笠を販売する店が数軒あり、中でも一番 の老舗は越後屋である。主人の祖先は菅の商で越後(新潟県)から来られ深江の里にそのまま住みつかれた。なんでも新潟県では越後 の事をイチゴと読むそうである。 玉造に着かれた「お伊勢詣り」の団体さんは二軒茶屋で一服中に使いの者が一足先に販売店に注文をいれる、といった具合(今では ケイタイで済むものを)。又みやげ物としても人気があった。オーバーに云えば全国的に有名になり注文が舞い込んだと聞く。そこで 稲田が菅田に取って変わり家の庭先にまで菅田を作った程である。これは想像の域を出ないが当時北前船があり大坂から瀬戸内を航海 して東北地方へ商品を運ぶ商船があり、注文を受けた菅笠を各港に降ろし帰路には東北で菅を仕入れて深江へ戻って来られた。村人の 殆んどが何らかの形で菅笠作りに携わっていたと思われる。 堺屋太一氏によると伊勢音頭(日本最古民謡)にも深江菅笠が歌われ一日七万人の往来があった。年間二百万人が参詣し,又「おかげ 詣り」(不景気の時)には六百万人が参拝したと述べられている。(当時日本の総人口は三千万人) 笠縫唄の一部を紹介しますと 「笠をせいだいし 笠倉建てて 村の庄屋どんに負けぬように」 「笠を買うなら深江で買やれ 馬の足がた これ名所」 ここで云う「馬の足がた」とは笠の裏側に馬蹄型の紋様が見える。次に田畑が菅田に変わったため租税も米納と銀納の二本立てになった。 例えば銀相場と米相場があり、この折り米一石につき銀一貫四百匁八分也と定め、米割九石九斗六升参合に対し銀壱拾四貫参拾五匁八分 七厘(喜右衛門)、又米割弐石六斗三升四合に対し銀三貫七百拾匁七分八厘(与惣左衛門)といった具合で「お伊勢詣り」が深江に大き な経済効果をもたらした。 「家数人数奥寄帳」(慶応四年)によると深江全体の世帯数は140軒で男子331人で女子351人で合 計682人という記録がある。 ところで深江の近隣でも笠作りは行われていた。「河内志」によると(江戸後期)莎草(シャグサ・ハマスゲグサ)を材料として渋川 郡足代村、東足代、三ノ瀬、岸田堂そして大平寺などで作られていた。莎草の産地として高井田、足代、森河内などがあり「足代笠」と 呼んでいたが直ぐ隣接する深江菅笠が有名であったので全て深江菅笠とした。 ところで幕末から明治維新にかけての激動の時代も落ち着きを見せ初め鎖国から開国へと文明開化の時代を向かえた。諸外国との貿易 も盛んになり帽子や麦帽子、山高帽そして鳥打帽子が輸入され、その影響は甚大となり笠の需要は急速に減少していったのである。ただ 参詣用としての菅笠の需要は旺盛であった。このため必然的に菅の用途を変わる必要にせまられ、笠以外の菅細工品の生産に向けられる ようになっていった。そこで皿敷が考案され天保年間には京都、名古屋、北陸地方で良く販売されるようになった。そして明治17年か ら外国に輸出が盛んになり、菅細工品の外国輸出の端を開いたのは足代村の旧家塩川家である。塩川家は初代布施市長を務め、その子息 が塩川正十郎(元財務大臣)である。輸出品目は皿敷を主として瓶敷、パン入れ、菓子器が加工され、その多くを菅笠の生産に行詰まっ た深江村に下請けさせた。足代村が中心となっていたため、殆んどが深江村で生産しながら、これらは足代村の菅細工の名で喧伝された。 一時は年額三万円に達する程、欧米に輸出された。その頃二人のものが毎日二回の往復で難波橋まで荷出しを行い、それを神戸港から輸 出された。 しかし前途有望に見えた菅細工品も当時の軍縮政策により一時期輸出が止まり、菅作りによる生活の途がたたれるようになって行った。 そのため菅田が次第に稲田にカムバックしていくのである。依って菅細工をする家が急速に減少していったのである。 参考資料として明治三年(1870年)10月「大阪府管轄物産展」では深江村では一年間で木綿300斤、米50石、菜種50石、 そして菅笠一万五千枚。 同じく大正四年(1915年)菅の作付面積三十三反、菅笠の価格2,220円 同じく大正六年(1917年)皿敷174,440組、価格6,976円、菅笠15,777枚、価格2,100円、そして円座2,3 50枚、価格471円といった記録が残っている。 また、明治22年12月(1889年)第三回内国勧業博覧会(東京)に個人ではあるが菅笠を出品した。 同じく明治28年(1895年)4月〜七月 京都にて第四回内国勧業博覧会に個人が菅細工として皿敷、パン入れ、バケツ、そして 梅鉢を出品した。 ここでどうしても二つの事について触れておきたいと思います。一つは伊勢神宮と笠縫について、そしてもう一つは氏神深江稲荷神社 と宮座についてであります。 先ず伊勢神宮と笠縫について 鳥越先生の笠縫についての研究には大変詳細に書かれていますが、簡潔に申しますと式年遷宮に用いられる菅笠及び菅翳は延喜式内匠 寮に明記されているように代々摂津国笠縫氏に調進を命じられたと書かれていることからして、古くから殆んど深江で制作されていたと 考えられる。江戸期に入っても本居宣長の「玉勝間」に見えるように調進の命は、その時代々々の庄屋に発せられた。中でも喜右衛門、 五郎兵衛を中心に江戸中期以後には仁兵衛、三郎兵衛等も加わり深江の伝統文化の象徴として誇りを以って制作に従事したのである。又、 大嘗祭に於いても同様であったと考えられる。 次いで「氏神 深江稲荷神社」と宮座について 本件についても鳥越先生は詳細に述べられているが、神社創建に関して現在の明細帳に記されている事での由緒並びに祭神の考証につ いて幾多困難な事情があるので言及しないことにすると述べられている。小生は否定も肯定もしないが、大昔に深江の里に移り住まれた 先人達には間違いなく祭神を祀られていたに違いない。その祭神が笠縫と関係があるのかどうかは不明である。 江戸時代に入って氏神に関する古文書には表紙に「玉造深江稲荷大明神」と記した部厚い書があり、年代は記憶にないが、紙は比較的 新しいものであった。内容については詳しくは解らないが当社の祭典等に関する歳時記と宮座の会計帳であったと思われる。 「玉造深江」とある事について深江稲荷神社は玉造稲荷神社の末社と考えられるのが妥当ではないか。頭に「玉造」と付くのは一節に よると織田信長が家臣徳川家康に命じ石山本願寺を焼打ちにした折り、玉造稲荷神社も焼かれ、そのため末社である深江稲荷大明神に合 祀され、そのため「玉造深江稲荷大明神」としての社名で比較的長く祀られていたと考えられる。明治時代に入って廃仏毀釈が行われ当 社がその対象になったため、宮座が中心となって当時の内務省宛に廃社の取消の嘆願書を提出された。その内容には玉造稲荷神社の末社 であることを強調したもので下書きが現存している。宮座を初め深江の人々は相当の苦心をされたと聞いている。 次いで宮座について 戦前までは当社には専任の神職は無く、主として宮座によって運営されていた。戦後初めて専任の神職として行俊良三氏が就任して現 在に引き継がれている。宮座は三十六軒からなっている。座入規定による進退によって、この数は時代によって幾分の前後はあるが、俗 に三十六軒といわれ何等かの血縁関係が認められ分家その他に於いても座入することが許されていた。宮座としては一月九日の正月座と 九月一日の祭座との二つの座がもたれていた。古文書としては文政五年(1822年)の「御宮座中諸控帳」や弘化二年(1845年) に「宮座順番帳」が残っている。これらは江戸時代末期であり、もっと古くから宮座の制度はあったと考えられる。 当初は正月座、祭座には当屋と間当屋が設けられ、当屋はその年の世話役で間当屋は翌年の世話役としていたが規模が大きくなったた め三十六軒を六つに割って六人組として世話をするようになった。組には組長を設け最長老がその任になった。これも時代々々によって 大幅に改正され、一口に言えば、それぞれ皆が組長の任につきたかったのではないかと思われる。時によっては「くじ引」で長を決めた こともあったと記している。勿論宮座全体の長は庄屋が当り補佐役もおいた。しかし宮座も戦後の混乱期に昭和25年の9月に行われた 祭座を最後に宮座廃止の決議もないまま自然中止の形となってしまったのである。 ついでに宮座の宮入について 九月の祭座の神事には宮入が行われ、その年に61才になった者が宮年寄に加わる儀式があり、二組の若衆が別々に神社まで送る行列 神事が行われていたが、明治末期になって中断された。昭和29年に行俊宮司の肝いりで宮入神事を一度だけ復活された。小生も記憶に ある。 これまでは菅笠を主として述べて来ましたが、これ以外には深江からは名高い武将や学者等は出ておられませんが、高僧としては法明 上人がおられます。法明上人は弘安二年(1279年)後宇多天皇の頃に深江の名家、清原家で生誕され事情があって出家された。比叡 山や高野山で修業を積まれ、当時融通念仏宗が衰退の一途をたどり、寺宝を信者の縁で石清水八幡宮に預けねばならない程であった。 そこで宗議の結果、摂津国東成郡深江村の法明上人に再興の白羽の矢が当たり、そして第七世中興の祖として、みごとに再興されるので ある。平野の融通念仏宗の大本山大念仏寺では毎年七月七日に上人の遺徳を偲んで法要が営まれている。又、法明上人にまつわる「安堵 ノ辻縁起」はよく知られている。そして昭和の時代になって深江から傑出された茶釜師で人間国宝に成られた角谷一圭氏(故人)である。 大正期編纂された「東成郡史」に深江からは三つが上げられ、一つは深江の菅笠、二つ目は「安堵ノ辻縁起」そして三つ目は「雁塚」 が載せられている。「安堵ノ辻縁起」についての由来は「東小路あんどの辻地蔵尊」の横に掲示。また「雁塚」については法明寺境内に あります。 一、深江菅細工保存会が平成11年に「大阪市指定無形文化財」第一号を受ける。 一、大阪府教育委員会から史跡として昭和47年に「摂津深江笠縫邑跡」に指定。 又、昨年に於いて全国の優れた伝統工芸に授与される第31回伝統文化ポーラ賞を受賞。 (平成23年10月20日於「ANAホテル東京」に作品を展示)対象は深江菅細工保存会。 現在深江町では、これら伝統文化を守るため既に深江菅細工保存会が結成さえている。 又、菅田の復活について深江の篤志家から土地の提供を受け菅田が作られ、その保存会も出来ている。その上、深江郷土資料館も完成し ました。先達って菅作り等に地元の小学生が多数参加し、そのイベントの模様がマスコミに取り上げられた関係からか数千人の来訪客が 深江に来られた。この様なことは深江の有史以来初めてではないかと存ずる。 最後になりましたが、今回の伊勢神宮式年遷宮に当たり、わが町深江から菅笠及び菅翳の調進の命を受け、又前回に続いて角谷家から 銅鏡調進の命を同時に受けたことは誠に名誉なことであります。 前述しました中で古代の祭儀に於いて重要な役割を演じきた菅細工による祭具が銅鏡にとって変わったことによって衰退していったと もうしましたね。ところが二千年を過ぎた今、伊勢神宮式年遷宮に、わが町深江から菅笠も銅鏡も同期に奉納されることに、何かしら云 うに云えない歴史的な縁の糸が感じざるを得ない。 最後になりましたが近年特に我々を取巻く環境は内外共に厳しさを増していますが先人達の苦労の歩みを感ずる時、我々は充分それに 堪え忍んでいかねばならないと思います。伝統文化を大切に守り、そして継承し、それをバネにして前々を進んで行きたいと思う。 「深江二千年の歴史」をテーマにして書き綴ってきましたが、とりとめもなく一貫性に欠き御見苦しい点多々あったことに恐縮します。 最後まで御拝読を賜り誠にありがとうございました。 平成24年6月吉日 川田 勝造 追記 大阪市立深江小学校前校長 杉山先生が書かれました「深江の誇り 平成版」を必読してください。